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鄭和(ていわ)の南海遠征と中国海軍の太平洋進出




東日本大震災から約3か月経過し、相変わらずの管首相の居座り無策政権が継続しているのをあざ笑うかのように6月8日に中国艦隊の主力艦隊8隻が南西諸島を通過し太平洋に展開した。

潜水艦は確認されていないが、潜水艦救難艦も随伴していることから潜水艦も1~2隻は同行していると思われる。

彼らは過去、大隅海峡等の国際海峡や他国の排他的経済水域で領海に近いところを航行する際、潜水艦は無害航行ルールに基づいて浮上して航行するのが常であったが、過去に日本からは何の政治的、外交的干渉もないことから今回は堂々と潜水して展開中である。明らかに日本国は無視されている。

以前、本ブログで述べた第1列島線のSea Control Area の制海権の確保を確実なものにするために第2列島線内での作戦能力の強化を本格的に開始したものと思う。

第2列島線で米軍及び同盟軍(日本を含む。)の来援を阻止できれば、南沙、台湾海峡、東シナ海で自由な軍事行動が可能となる。 極めて危惧されるシナリオの序曲は既に始まっている。

中国艦隊の増強の過程を目の当たりに見ると、中国の海洋権益の獲得に関する執拗なまでの執念は約600年前の鄭和の南海遠征にまで遡れる。

中国の海洋戦略、尖閣問題で折に触れ、中国の「鄭和(ていわ)の南海大遠征」について書いたが、本日はこの鄭和について紹介したいと思う。

    図3   chobo-hyoshi.gif
         鄭和

鄭和は1405年に永楽帝の命を受け、約200隻、総乗組員約2万7800名余りの大艦隊を率いて、第1回南海遠征に出発、以後、1433年までの間に合計7回もの遠征を実施した中国の英雄として中国海軍が今でも崇拝している提督である。

このことは中国海軍の士官候補生を教育する練習艦に命名されていることからも理解できる。

最近の尖閣問題、東シナ海のガス田開発、中国海軍の増強等をみるにつけ、私が海自現役時代の2005年に中国各地で盛大に実施された鄭和の南海遠征600周年行事を思い出さずにはおれない。

   600周年      gv-28.jpg
  鄭和の大航海600年記念切手   鄭和下西洋600周年記念切手

中国国内の運送、造船、海洋事業および港湾施設建設の成果を展示し、航海や海洋関連の記念事業が数多く実施され、祈念切手も発行された。これはまさしく鄭和の大航海の偉業を称え、熱愛祖国の愛国心を発揚し、本格的な海洋進出のキックオフだった。

 鄭和は1371年現在の中国南部・雲南省に生まれた。彼の一族は代々イスラム教徒であり、モンゴルが中国を支配していた元の時代には、色目人、いわゆる西方系民族であった。

明となり、彼の故郷である雲南省が明によって征服された時、彼は明軍に捕らえられ、宦官(かんがん:東洋諸国で後宮に仕えた虚勢男子、宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用されたが、後には志望者にも任用した。常に君主に近接し重用されて政権を左右することも多かった。)にされた。

その後、永楽帝に仕え、そこで彼は、才能を次第に発揮、人々の注目を集めるところとなっていく。そして、1405年7月11日、永楽帝の命を受け、約200隻、総乗組員約2万7800名余りの大艦隊を率いて、第1回南海遠征に出発、以後、1433年までの間に合計7回の遠征を実施した。

当時の明は、第3代皇帝の永楽帝の時代にあり、建国時における国内の混乱がようやく収まった時期であった。ちなみに永楽帝の即位時期は日本においては、室町時代の足利義満の時代にあたる。

明は国内が安定し、永楽帝は、国外との交易により、発展をのぞむようになり、安定した交通路の確保が必要であり、当時、シルクロードをはじめとする内陸の交通路は、モンゴルをはじめとする各種異民族の支配下にあり、たびたび、万里の長城をこえて侵入してくる彼らの支配下を通過することは、非常にリスクを伴うものであった。

永楽帝は、内陸部交通路の確保のため、5回にわたりモンゴル征伐を実施するも、成果は得られず、内陸の交通路に変わる海上交通路を開拓する必要があったため、鄭和に南海遠征を命じた。

鄭和に命じた理由については、1番の理由としては、彼が漢民族でなく、かつ、イスラム教徒であることが、遠征先の人々に受け入れられやすいと永楽帝が判断したためとみられている。

ensei1.jpg

1回次から3回次までは、現在の江蘇省・劉家港を出港した後、マラッカ海峡・セイロン島を経由し、カルカッタに到着した。

マラッカ海峡においては、海賊征伐を実施し、これまで明と国交がなかった東南アジア諸国が続々と明に朝貢するようになった。また、東南アジアに中国人が進出することとなり、これらが後に華僑と呼ばれる人々の先がけとなっている。

昨今のソマリア沖海賊対応に中国海軍が真っ先に艦艇部隊を派遣したのもこの思想の継続かと納得できる。

ensei2.jpg

続く第4回次から7回次、カルカッタまでは1から3回次と同じで、その後は、ホルムズ経由アラビア半島南部のアデンまで進出、また、途中で別れた別働隊は、アフリカ東岸のマリンデイにまで達している。


遠征時に使用された船は宝船と呼ばれるジャンク船の一種であり、記録によれば、長さ173m・幅56m・重量500t、乗員は200名といわれる。
宝船(復元)


次表は、鄭和・バスコダ・ガマ・コロンブスが指揮した船隊の規模を表で比較したものであり、数値は中国側の文献資料等によるものである。

図8


大航海時代のヨーロッパの航海目的は、当時、貴重品であった香辛料を、陸路のアラビア商人を介することなく、直接手に入れることや未知の土地の発見、開拓であったのに対し、

中国の大航海は、鄭和の大艦隊による南シナ海やインド洋の海外覇権の樹立によって、外国からの朝貢を促し、海外の品を入手することであった。

また、靖難の変により、簒奪(さんだつ)という手段で帝位についた永楽帝は、国内の批判を払拭するため、他国の朝貢を多く受け入れる儒教的な皇帝を演出することにより、自らの継承を正当化しょうとする政治的側面も考えられる。

南沙・西沙に引き続く尖閣問題は600年前から続く覇権主義に基づく手法においては現在においても全く同様であり、その目的も延々と受け継がれていると言える。


中国海軍は士官候補生を乗せて遠洋航海実習を行う練習艦を「鄭和」と命名し、毎年北米、インド洋沿岸国等を訪問している。
練習艦

上の写真は2009年11月5日、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校訪問のため、中国海軍の士官候補生約350名を乗せて江田内に入港中の写真である。

 中国海軍は、約606年前の鄭和の南海遠征以来、虎視眈眈として海洋遠征を準備し、今や時は来たと思っているとしか思えない。

孫子の兵法に曰く、「彼(か)を知り、己(おのれ)を知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆し。」




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