海軍史上の恥辱1988年3月14日の南沙諸島での出来事 / 中国海軍の一方的なベトナム海軍(海兵隊員)攻撃
3月という月は色々なことが起こる月である。
昭和20年3月10日は10万人以上の市民が犠牲になった東京大空襲、平成21年3月11日は未曾有の大被害をもたらした東日本大震災が起こった。
約35年間海上自衛官として勤務した私にとって本日3月14日はホワイトデーなどと浮かれている日ではなく、世界の海軍史上、信じられない恥辱的な作戦(とても作戦とは言えない蛮行)が行われた忘れてはならない日である。
それは1988年3月14日に起こった南シナ海の南沙諸島(ベトナム名:チュオンサ、英語名:スプラトリー)での中国海軍によるベトナム海軍(海兵隊)の一方的な攻撃である。
当時私は2等海佐(中佐)で現在の統合幕僚監部の対米調整の窓口担当者であった。
当時の日米調整はヨーロッパ、朝鮮半島有事に備えての対処構想等についての日米共同研究が主であった。
ある日、私は日本の防衛という題で新任の在日米軍司令官一行にプレゼンテーションを行った。その内容には南沙、西沙の話題もあった。
プレゼン後の昼食時に在日米軍司令部のカウンターパートの一人の米海兵隊の大尉が言った一言が忘れられない。
「スプラトリーは大変だ、特に中国海軍は酷い、無抵抗のベトナム海兵隊員を艦砲射撃で殺害した。」と教えてくれた。
その時はやはり中国海軍はNavyではなくとんでもない人民解放軍だと思った程度であり、日本ではマスコミも海軍関係誌も報じることはなかったと記憶しているが、当時の米軍では海兵隊の大尉までが知っていた。
今から数年前であろうか、私がインターネットやホームページ等に興味を持ち出した頃に偶然に1988年3月のスプラトリー侵攻作戦の中国海軍のドキュメンタリー映像をYoutubeで発見した。
その映像を見て愕然とした。その映像は、約60人で南沙の領有を主張し浅瀬に立って岩礁に国旗を掲げるベトナム海兵隊員及び輸送船を中国海軍は駆逐艦の主砲及び対空機関砲で攻撃、殲滅するものであり、しかも警告射撃や威嚇射撃も行わず、即の集中射撃である。
浅瀬に立つ海兵隊員の集団及びベトナム海軍の輸送艦に対しての集中射撃、私は現役時代に射撃、ミサイルを専門としていたこともありなお更愕然とした。
浅瀬に立つ集団に口径の大きい対空機関砲で打てば水面での跳弾、水面下での水平弾道とともに甚大な被害を与える。このような残酷非道な海軍オペレーションは見たことも聞いたこともない。
ベトナム海兵隊員64名が犠牲になり、後に3名だけが遺体で見つかったが、61名は遺体すら見つからなかった。というナレーションがあるが良く理解できる。
海自現役時代に私は米軍はもとより、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス、シンガポール、タイ、インドネシア、オーストラリア、チリ、韓国、ロシア海軍等々の多くの軍人と付き合い多くの友人を持っている。
私が初めてロシアのモスクワを訪問し、陸海空軍の制服間の初めての信頼醸成措置の会合を持った際も、海軍同志は何故か心が通じる。我々はこれをネービーファミリーと呼んだ。
海を職場とし同じ苦しみ喜びを共有する海軍同志の関係は不思議な連帯感がある。
昨日まで敵だと思っていたロシア海軍の人間と具体的なアジェンダもなく初めての会合を持っても、海軍同志の会話はすぐに進展し、日露の共同救難訓練の開催に進んだ。
複数国の海軍士官が集まるパーティなどに参加すると明日は敵になるかも知れない皆ファミリーであり友人となる。
これが海軍の海軍である所以であるが、中国海軍のこの事件(海軍作戦と呼ぶにはあまりにも悍ましい。)だけは海軍史上の恥辱に満ちた出来事であり、中国海軍の今後の作戦を見積もる上でも参考とすべきである。
本ビデオは中国海軍のドキュメンタリー映像をもとにベトナムで編集されたものと思われ日本語のナレーションにやや違和感を感じるところもあるが、ナレーションを起すと次のとおりである。
『確定された歴史的な証拠と連続的な領有をもって、ベトナムは東ベトナム海、国際的には南シナ海とよばれるところにあるチュオンサ諸島に主権を実施してきた。しかし、天然資源と海運交通を支配しようとする野心のもとに、中国はベトナムを凶暴に、非人間的に攻撃し、ベトナム主権と国際ルールを踏みにじった。このドキュメンタリーは1988年3月14日にチュオンサ諸島への侵入の間、中国海軍によって撮影された。中国海軍の反駁できない犯罪の証明である。
圧倒的な武装をした中国海軍はほとんど非武装のベトナム海兵64人を殺害し、ベトナムの輸送船3隻を破壊し、難を受けた人たちを救助しようとする船を妨害した。良心と正義のために、このフィルムは障ナ小平の指導する当時の中国政府の犯罪の責任を告発している。この防衛戦は、チュオンサ諸島の最大の島であるシントン島の3つの岩礁のあたりでの数時間の衝突であった。チュオンサ諸島は中国の海南島の最南端から1,000kmも離れており、長い歴史の中でベトナムが実効支配をしてきた地域である。
1988年の初めの頃、中国海軍はチュオンサ諸島の5つの岩礁と環礁を占領しようとした。このうちの3つはベトナムが領有している大きな島に非常に近い所にある。ベトナム海軍は急遽物資と機材を6つの岩礁と環礁に運んだ。ベトナム海軍は成功裏にことを進め、中国海軍が他の島を占領するのを食い止めた。3月の初め、ベトナム海軍の最高司令官は他の3つの岩礁がベトナム管理下のシントン島のまわりを取り囲んでいるので、それらを防衛する決定をした。
3月13日の午後ベトナムの輸送船3艘は予定通り岩礁に行き、主権を主張して旗を掲げた。しかしその数時間後、4隻の中国の武装戦艦が近づいてきて、拡声器で声高に警告を発した。中国の軍艦からの挑発と威嚇にも拘らず、ベトナムの輸送船は根気よく岩礁のそばに錨をおろし続けた。ベトナムの輸送船は軽装備でとても中国の武装戦艦と戦う力は無く戦意は無かったが、中国兵はベトナム人を挑発して重装備の海兵隊員とモーターボートを海に浮かべた。中国兵はチュオンサ諸島200の島とその周辺の岩礁、環礁は全て中国のものであると教え込まれていた。
緊張関係は海兵隊員が上陸用舟艇に乗り、ミサイル装備の駆逐艦を集結し続けた翌朝まで続いた。彼らはベトナム兵を挑発し続けた。ハノイ時間の朝6時、彼らは50人の武装海兵隊員を乗せた3隻のアルミボートを出して、岩礁に向かって突進してきた。彼らはベトナム兵の面前で軍隊を上陸させ、昨晩から岩礁のプラットフォームに掲げられたベトナムの旗を引き降ろそうとした。
ベトナム人海兵は水位が体の半分まで浸かった岩礁に立って、防衛の帯を作って敵の侵入を防ごうとした。中国兵は狂ったようにベトナム兵が旗を降ろして岩礁から退くよう脅かした。ベトナム兵は岩礁にしがみついて、国旗をいかなる犠牲を払っても翻らせ続けると決心した。ベトナム兵に岩礁から撤退させることができなくて、中国の海兵隊員は戦艦に戻らざるをえなかった。そしてついに・・・。
ベトナム海兵が岩礁から撤退することを拒否したため、中国兵は37mm対空砲で粗末な装備のベトナム兵に戦艦から直接発砲した。中国の駆逐艦は3隻のベトナムの輸送船に100mm砲で激しく発砲して2隻は完全に沈んだ。その事件後、現在まで2つの岩礁を守り続け、その他は中国が占領し続けている。ベトナム海兵隊員64名が犠牲になり、後に3名だけが遺体で見つかったが、61名は遺体すら見つからなかった。
2008年夏、ベトナム海軍の代表派遣団は、20年前の中国の侵略からベトナムの神聖な海と土地を守った英雄たちに心からの敬意を捧げるために、式典を行った。犠牲になった水兵と士官を思い出すために、タバコ、チューインガム、水兵の過去の日用品と花輪を海に流した。式典は1988年の中国の侵略以来、毎年実施されてきた。犠牲になった人たちを思い出す中で、彼らが祖国防衛のために手をつないで壁を作ったあの時の戦友のイメージが甦ってくる。
今日、中国の脅迫と挑発の中で生きていかなければならないが、ベトナムはチュオンサ諸島に主権を再確認して、断固として地域の平和な状況を維持し続けることを主張する。歴史の過程において、中国からの度重なる侵略からベトナム海兵たちは、中国の攻撃と占領を画策する陰謀に対して高度な警戒を喚起させている。』
毎日繰り返される緊張にもかかわらず、ベトナムの海兵と民間の人々は楽しい生活を送り、彼らの生活も改善されてきている。海兵と住民のそれぞれの世代がベトナムの祖国の海と島の主権を守っている。本土から400km離れた広い海と空の中で、祖国の領海を守る砲台のように断固として団結している。』
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