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金正日死去に対する危機管理の甘さ / 官邸に物申す!




近いうちに来ると思っていたニュースが19日に飛び込んできた。
金総書記金総書記死亡発表

しかも、2日前の17日に金総書記は死亡していた。
2日も完全に情報を秘匿できる北朝鮮に恐れを感じる。

18日には日韓首脳が例の「慰安婦」問題で激論を交わしていたことを考えると日韓政府は共に総書記死亡の情報を持っていなかったことになる。

19日の北朝鮮の発表後の政府の対応を見ていると危機管理意識の相変わらずの低さを感じる。全てが形だけの姿勢で実体を伴わない処置、対応ばかりである。

まず、野田首相の行動である。

北朝鮮は19日の午前に正午から重大放送を行うと発表していた。
この事態は政府のクライシスマネージメントにおいて全閣僚は1時間以内に官邸に参集できるような警戒(ALERT)態勢の状況である。

野田首相は正午の重大発表を待たず11時59分に首相就任後の初めての街頭演説のため新橋駅前に向かった。

12時3分に秘書官からの総書記死亡の報告と官房長官から同5分に「戻って下さい」という連絡を受け同9分に官邸に戻ったと報道されている。

この10分間を危機管理態勢が盤石であったというかもしれないが、そもそも新橋駅前での街頭演説と北朝鮮の異様な重大発表の予告時期が競合しても街頭演説に出発すること自体問題である。

日本国の指揮官という自覚があるならば北朝鮮の重大発表に対応するのが当然である。

街頭演説は別に10分遅れようが取りやめようが問題はない。

この意識の持ち方がクライシス発生時の迅速な対応に繋がる。この確固とした意識こそがクライシスマネージメントの要点である。

ちなみに、新橋駅に街頭演説を聞きに行った友人の話では事前に準備していた蓮舫行政刷新担当大臣も早足に引き揚げたそうであるが、

今回は真っ当な日本人グループ約300人が国旗やプラカードをもって集結しており、蓮舫氏に対しては「帰れ」「どっちを向いて政治してるんだ!」等の罵声が浴びせられ、また現場の報道チームに対しては「偏向報道をするな!」等の強い抗議で退去させた模様である。
極めて健全な傾向である。当然のことながらこの種報道は一切なされていない。
新橋駅前
北朝鮮の金正日総書記死去のため、予定した街頭演説を
 野田佳彦首相が取りやめ、自らも足早に引き揚げる
 蓮舫行政刷新担当相(車上右から2人目)
 =東京都港区で2011年12月19日午後0時11分


次に安全保障会議である。

報道によると安全保障会議は午後1時から始まり、首相が関係閣僚に「十分情報を集め、警戒態勢を整えて欲しい」と指示して約10分で終了したそうである。

10分で何の安保会議ができるのか全く理解できない。

首相は金総書記の死亡に伴い、官邸に帰着後12時10分に 
①情報収集態勢の強化 
②米韓中との情報共有 
③不測事態に備えた万全の態勢
の3点を指示したそうであるが、

要は不測事態の具体的な予測と対応の準備である。

情報収集態勢、米韓等との情報共有は関係省庁及び自衛隊等の機関が行っている。

防衛相関係筋の情報として北朝鮮はノドン等のミサイル2発の発射実験を行ったという報道もあり、これが事実だとすれば海上自衛隊のイージス艦等は約1か月前から日本海に展開しており、海上自衛隊は米海軍と連携して各種の情報収集活動をしていた筈である。

安保会議において具体的な不測事態、例えば北朝鮮の内乱、大量難民の日本海流出、日本国内の原発、鉄道、水源地等に対するテロの発生等々、考えればきりがない。

これらの事態とその対処においては有事立法に期待しなければならない制約が多々ある。

これらの種々の問題を自衛隊の各幕僚長や警察庁、保安庁等の幹部から日頃聞く機会もない官邸であればなお更この機会に首相主導で聞き、必要な立法措置と各省庁の具体的な連携要領を指示しておくべきではなかったのか。

20日付の韓国各紙は、北朝鮮の金正日総書記の死去をめぐり、健康状態が良くないにもかかわらず列車で現地指導を続けたことや、死去から発表まで51時間半かかったことなど多くの謎があると報じた。

 東亜日報は「(北朝鮮の)発表で最も疑問が残る点は列車内で死去したことだ」と指摘。金総書記の健康維持は北朝鮮にとって「最優先課題」であり、体調の変化に北朝鮮当局が全く気付かないまま総書記が現地指導を続けたことは理解し難い、と指摘した。

 毎日経済は「誰かに殺害されたのではないか、という可能性が提起されている」とした。東亜日報も「強硬派の仕業ではないか」とする北朝鮮脱出住民(脱北者)出身の専門家の見方を伝えた。

という報道にもあるように、今後何が起こってもおかしくない状況であるにも拘わらず、民主党政権は東日本大震災と同様に希望的予測に基づいた対応しかしていないように感ずる。

東日本大震災においても非常事態を宣言できなかった民主党政権は2度と危機管理の過ちを犯してはならない。
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品格も節操もない韓国李大統領の来日首脳会談 / 慰安婦問題で野田総理に泣きつく





日韓首脳日韓首脳会談



韓国の李明博大統領が来日、18日に日韓首脳会談が始まった。

経済協力や中国の海洋進出、中国漁船の違法操業問題等について意見交換を行わなければならない筈が、何故か慰安婦問題が主になっている報道である。

経済問題の前に過去の歴史の懸案、慰安婦問題について話さねばならないとクギを刺し、執拗に誠意ある措置、暖かい心に基づいた解決策、大局的な解決を懇願したそうである。

全く、節操も品位もない姿である。

そして慰安婦問題が解決しなければ、第2、第3の慰安婦像が創られると、まさに恫喝とも思える発言をしたとの報道もあり驚きであり、開いた口が塞がらない。

慰安婦問題は、従軍でも強制でもなく、当時の一般社会でも認められていた公娼であり商行為であったことは周知の事実である。

 現場にいた韓国政府当局者も首脳会談であれほど李大統領が熱を帯びて語る姿を見たことがないと語ったそうである。

日本国民を愚弄するのはいい加減にせよ! 週末の各種TV番組のコメンテーターも慰安婦問題については口を濁す場面が散見された。

 李大統領の親族の斡旋収財容疑での逮捕等、不祥事の続出の中、来年の大統領選を控え、国内世論の誘導と対日批判の中に保身を考えている姿をみると誠に情なく求心力を失った哀れな政権末期の状態である。

 残念なことに、野田首相は李大統領に対し、本件は決着済みと指摘しつつも、これからも人道的見地から知恵を絞っていこうと述べたようである。

この問題の根本には、韓国側の事実誤認による根強い反日感情があり、日本側の譲歩や人道的支援は逆効果である。

このような心外な無礼な態度には日本国民を代表して毅然とした態度で臨むべきである。
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私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎元陸軍少尉



小野田少尉1小野田少尉2


大東亜戦争終結から29年間、フィリピン・ルバング島で帝国軍人として過ごされ、1974年3月に帰国された小野田寛郎元陸軍少尉が残された「私が見た従軍慰安婦の正体」は、韓国が未だに従軍慰安婦問題を取り上げている今こそ読み返すべき内容であり、永久保存版としてここに残しておきたい。

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私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎
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首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。

大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。

それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。

あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。


◆漢口の「慰安所」を見学

商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。

当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。

ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。

映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう。

小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。

彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。

日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。

そこには内地人も鮮人も中国人もいた
(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。

また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

半島出身者に
「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」
「精神決めてトットと上がれ ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。

内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。


◆どこにもいなかった「性的奴隷」

ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。

「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。

というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

彼女たちは実に明るく楽しそうだった。

その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。
確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。

明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。

騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。
私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。

またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。

これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。

私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。
三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。

貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。

私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。

ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。

「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。

これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。


◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

次に、軍関与の暴論について証言する。

私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。

周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。

私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。

兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。
その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。

それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。
彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。

大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。

今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。

これは私の部隊だけではないと思う。 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。

そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。

言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。
戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。
このことだけは確かだ。

野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。

自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。

彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。
現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。

買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。

根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。

こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
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ソウルの日本大使館前に慰安婦の碑 / 国交断絶にも値する愚行



読売onlineニュースより・・・・・
 「韓国・ソウルの日本大使館前にいわゆる従軍慰安婦問題を連想させる少女のブロンズ像が14日設置され、日本政府は即日、韓国政府に抗議した。
 武藤正敏・駐韓国大使が韓国外交通商省の朴錫煥(パクソクファン)第1次官に少女像の早期撤去を申し入れたが、解決の糸口は見えていない。
 少女像は高さ1メートル20。韓国の民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」が設置した。
 武藤氏は朴第1次官に対し、「建設が強行されたことは誠に残念だ」と強調した。早期撤去の要求は、大使館の保護などを定めたウィーン条約第22条2項を根拠としており、日本側は少女像の設置が「公館の威厳の侵害の防止」の責務に反するとの見解だ。
 これに対し、朴第1次官は「慰安婦問題は日本政府が解決に向けて努力すべきだ」と述べるにとどめた。」
(2011年12月15日00時32分 読売新聞)慰安婦像



それにしてもこの国際化時代に呆れた行為であり、運動する反日組織も組織ながら韓国政府も情けない。更に弱腰外交の日本政府も相も変わらずその威厳も尊厳もない散々な為体である。

また、日本のマスコミも像設置のニュースと在日韓国人による日本外務省を取り囲む人間の鎖のニュースは大々的に報道するが、これに対する日本の市民のデモは報道せず、右翼の反対活動のみ報道する。

「慰安婦は強制連行された性奴隷というのは真っ赤な嘘です!もうとっくにバレています!元慰安婦に日本政府は謝罪も補償もする必要はありません!慰安婦への新たな基金は必要ありません!日本政府と外務省は毅然とした態度をとって下さい!水曜デモに参加する日本の国会議員よ 恥を知りなさい!日本軍は強姦魔ではありません!
私たちのお父さん、お祖父ちゃん、ひいお祖父ちゃんの名誉を傷つける嘘は止めなさい!
これが普通の日本女性の思いです!」

と訴える「正しい歴史を次世代に繋ぐネットワーク」が中心となって行った『慰安婦の嘘は許しません!なでしこアクション2011』という抗議集会等は一切報道されない。

韓流ブームに火をつけることしかしない摩訶不思議なマスコミには全く期待していないが、日本政府と外務省だけは毅然とした態度で臨むべきである。

そもそも「従軍慰安婦問題」は

元陸軍軍人で作家の吉田清治が1983年に『私の戦争犯罪』を出版し、朝日新聞や赤旗で自身の「戦争犯罪」の告白を展開し、韓国で講演と謝罪を行ったのが発端であり、この内容も1989年に韓国の地元紙が捏造と報じている。当の吉田も「人権屋に利用された私が悪かった」と告白している。

戦前には日本国内と同様に外地にも慰安所が存在したのは周知の事実であるが、軍による強制連行はあり得なかった。反日勢力のたかりのための捏造である。

当時の日本兵の給料は、月に13円、将校クラスで25円だったそうで、当時、売春婦の朝鮮人女性は、月に1000円、稼ぎの良い人は2000円だったとも言われている。

来日して補償を叫んだ売春婦の老婆たちは売春婦当時、当時のお金で5万円の貯金があったとも言われている。現在の相場で言えば10億円相当の貯金があったことになる。

不甲斐ない日本外交の結果、在外公館の尊厳に関わる重大な事態に及んだ今、もはや断じて座視すべきではない。国家の品格など微塵も感じられない韓国政府に対しては毅然とした態度で臨むべきである。
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大東亜戦争終結から29年間、フィリピン・ルバング島で帝国軍人として過ごし、1974年3月に帰国された小野田寛郎さんが書かれた「私が見た従軍慰安婦の正体」は、今一度読み返すべき内容であり、多少長くなるので次回のブログで永久保存することとする。
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定年憂国親父は海自現役時代、旅傘道中姿で老人ホームを慰問し歌と寸劇を披露していました。
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