昨今、日本の歪められた歴史観と中国及び韓国の異常で執拗な歴史認識の強要に疑問が投げられ、公然と議論されるようになったのは誠に喜ばしい限りである。
このような日本の風潮と相まって、靖国神社の参拝者に多くの若者、特に女学生を最近良く見かけると思っているのは私だけであろうか。
戦後の占領政策により日本人に植え付けられた自虐史観はインターネットの普及により音を立てて崩れつつあるように思う。
これもインターネットの力がマスコミの力を凌駕しつつある結果なのか。
インターネットに習熟している若者達は膨大な情報の中から正しい情報を選別する能力を有しており、また戦後の自虐史観にも深く洗脳されてはいないため、真実の歴史を知ろうとする健全な自浄能力も有している。
問題は、50代以上の親や祖父母たちであろう。
私も62歳であるが、高校時代までは日本は侵略した、日本軍は酷いことをした。と思い込んでいた。いや、思い込まされていた。
私は、防大から海上自衛隊に入り、約40年にも及ぶ勤務の中で一朝有事に備え自分自身と部隊を真に強くする事だけを目標に生きてきた。そして、日本や世界の古代から現代の戦史についても勉強した。
私が初任3尉(少尉)であった昭和50年から52年頃の護衛艦の艦長や司令、司令官は旧海軍出身の方が多く、海軍兵学校の教育、海戦の実戦経験、海軍の伝統精神等を良く聞かされた。
海上自衛隊の護衛艦に勤務し、旧日本海軍の軍艦旗である旭日旗が海上自衛隊の自衛艦旗として使われていることも私の疑問でもあった。敗戦し武装解除された日本海軍の軍艦旗を戦後数年経過して再興した海上自衛隊が再び使用している。
日本軍や日本人の精神力に恐怖した戦勝国が教育勅語や武士道に通じる武道を禁止した占領政策の流れの中で何故? このことは常に疑問であった。
海上自衛隊が創設されてから60年が経過したが、海上自衛隊は旧日本海軍の精神や教えをそのまま継承している。すなわち明治維新とともに誕生した日本海軍の精神をそのまま受け継いでいることとなる。
私は現役時代から部下隊員に「君たちは海上自衛隊で勤務すること自体が素晴らしい日本文化と日本精神の継承者である。現代の世情は本来の日本人の品格、人間性と乖離しつつあるが、日本人のDNAは変わっていない。あるべき日本人の姿を示し続けるのも我々に与えられた使命である。」と話していた。
明治維新により日本海軍が誕生してから約145年経過するが、海上自衛隊の教育や精神はまさに明治維新とともに誕生した大日本帝国海軍の精神や日本人本来の精神文化をそのまま継承していると言っても過言ではない。
民主党政権が終わり、時代の大きな節目になるであろうこの時期に、海上自衛隊が今でも大事に継承している旧日本海軍の教えは、和と勤勉を信条とする日本人社会の中で組織力、チーム力を発揮するための日本古来からの教えでもあり、海上自衛隊のみならず日本の民間企業にもそのまま適用できるものであり、海上自衛隊に今も残る日本海軍の教えについて、特に私の推奨する以下の中から10選として紹介することとしました。
① 合戦準備
海上自衛隊の護衛艦は戦闘態勢への移行準備の号令として「合戦準備(かっせんじゅんび)」の号令を下令 しています。どうして今どき「合戦準備」なのかを紹介します。
② 5分前の精神
5分前の精神は広く知られていますが、この5分前という概念がどのような経緯で誕生し、どのような教え として残っているのかを紹介します。
③ 出船の精神
出船の精神とは何か、何故この精神を大事にしているのかを紹介します。
④ ヨーソロの精神
ヨーソロとは何か? ヨーソロの起源と教えについて紹介します。
④ 五省
海軍兵学校で始まり、海上自衛隊に今でも継承されている「五省」についてその意味と実践の現状について 紹介します。
⑤ 初級士官心得
三等海尉(少尉)及び二等海尉(中尉)の若い初級士官が勤務遂行上の心得として今も実践する約20ヶ条の 初級士官の心得について紹介します。
⑥ 青年士官は青天井
青年士官は青天井という海軍から伝わり、海上自衛隊の若い士官が実践している教えについて紹介します。
⑦ 部下統率法
人を動かす部下統率の極意として海上自衛隊に継承されている海軍の教えについて紹介します。
⑧ 士気高揚のための基本要素
海上自衛隊が継承している海軍式士気高揚策について紹介します。
⑨ 男の修行
階級、指揮命令系統が厳正な海軍における人生訓としての教えを紹介します。
⑩ 海軍士官である前に紳士たれ
明治維新により誕生した日本海軍創設以来の教えである「海軍士官である前に紳士たれ」についてその起源 と教えについて紹介します。
1 その1「合戦準備」
海上自衛隊の護衛艦は戦闘準備の作業を開始する号令として「合戦準備(かっせんじゅんび)」を今でも使っています。
護衛艦の一般公開等において、海上自衛隊の護衛艦は、戦闘準備の号令として旧海軍からの「合戦準備」を使っていますよと紹介すると10人中10人がコンピューター・ミサイル戦の時代に「合戦」ですかと一様に驚かれる。
私が、平成17年に海上自衛隊の全護衛艦と艦長の教育指導を担当する海上訓練指導隊群司令の配置にあった時、「合戦準備」は現代の戦闘様相に相応しくなく「戦闘準備」という用語に改めようという議論が起こった。
勿論、私は反対した。当時の海上自衛隊の教育界では「戦闘準備」の意見が多かったが
恐らく海幕の主要幹部の方も同様の意見だったであろうが、「合戦準備」は生き残り、未だ
にあの最先端のイージス艦でも「合戦準備」という号令が戦闘態勢につく準備号令として使われている。
昨今の北朝鮮の弾道ミサイル警戒に出動するイージス艦も、破壊措置命令がでれば「合戦準備」が艦内に流れ戦闘準備を整えることになる。
この「合戦準備」という号令がかかると、服装を正し、心を正し、身命を賭して国を守る決意と覚悟が生じたものである。
「・・合戦」「・・戦い」「・・役」「・・変」「・・紛争」「・・戦争」等々、戦いの形式によって使い分けられている。
ここではこれらの定義づけはやめるが、「・・合戦」と言えば、
両軍が向かい合い、合図で始まる戦(いくさ)であり、指揮官先頭の両軍の大将が馬で進み出て、「やあやあ、われこそは・・・国の・・でござる。」と名乗りをあげ、お互い大義を言い合い、あるいは相手をののしり合い、そして最後に「かかれ」の合図で戦(いくさ)が始まる。
また、敵の大将に要求されれば大将同士の一騎打ちもある。このように先手、後手、だまし討ちのない正々堂々とした戦(いくさ)が合戦である。
この観点から見ると、精神を統一したり、相手を威嚇したり、自分を鼓舞する「しきり」があり、「はっけよーい のこった」の合図で始まる相撲も合戦の型であると言える。
ではあるが、この夏の参院選で維新の会の橋下代表がしきりに選挙戦を「大戦(おおいくさ)」と言っておられたが「戦(いくさ)」という響きには「合戦準備」に通ずる親近感を覚えた。
海上自衛隊での勤務中、米海軍や多くの国の海軍軍人と友人になり、家族同士の付き合いでキャンプに行ったり、大酒を酌み交わしたりして分かったこともある。
どこの国の海軍士官でも、トラフャルガーからミッドウェー、フォークランドまで古代から現代までの海戦、戦史を深く勉強している。
その中で他国の海軍士官が褒め称えるのは日本海海戦やマレー沖海戦の日本海軍の見事な作戦と戦闘に勝利した後の破れた敵兵に対する姿勢、処遇、すなわち武士道精神である。
この「合戦準備」という号令には、お互い海を守るNavy Familyであるが、国の命運を賭けて正々堂々と戦おう。という武士道精神を呼び起こす不思議な力がある。
日本海軍が大東亜戦争における海戦で残した武士道精神は枚挙に暇はないが、特に破れた敵部隊、敵兵に対して示した武士道精神は誇れるものが多い。ここでは大東亜戦争開戦劈頭のマレー沖海戦の一例について紹介しよう。
時あたかも、この7月22日に英王室のウィリアム王子(31)とキャサリン妃(31)の間にジョージ王子が誕生し、世界中の祝福を受けたが、イギリスと日本の関係は深い。
生麦事件~薩英戦争~薩摩藩イギリスの技術の導入~明治維新~日清戦争~日英同盟~日露戦争~日英同盟破棄~大東亜戦争と日本の近代化にはイギリスが大きくかかわっている。
明治維新後、日本海軍の創設に大きく貢献したのもイギリス海軍であった。
日本海軍の海軍兵学校の教育理念等もアーチボルド・ルシアス・ダグラス少佐はじめ総勢34名からなるイギリス海軍の顧問団の指導で確立された。
そのイギリス海軍主力戦艦部隊との海戦がマレー沖海戦である。
マレー沖海戦は、大東亜戦争開戦の真珠湾攻撃の2日後の1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊がイギリス東洋艦隊の主力戦艦2隻を撃破した海戦である。
マレー沖海戦は、日本がシンガポール上陸作戦を実施する上での海上補給路を確保するための海戦でした。
イギリス軍は、日本軍の行動を事前に察知し、開戦の6日前である12月2日に、イギリス最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻からなる艦隊をシンガポールのセレタ軍港に入港させました。
そしてイギリス東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス海軍大将は、日本軍マレー上陸部隊の船団攻撃のため、部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航します。
対抗する日本の艦隊は金剛と榛名です。
両艦とも近代化の改装こそ受けていたものの、艦齢は27年を越えており、また兵装・装甲の厚さも元は巡洋艦程度の実力しかなかった。
プリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、搭載するポムポム砲は、1分間に6000発の弾丸を発射するというすさまじい対空兵器、イギリスの艦艇は2年も前からヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に空襲され、これらを撃破しており対空戦の経験、能力は極めて高かった。
この大英帝国誇る不沈戦艦は、当時の国王ジョージ6世の兄王である、エドワード8世の即位前の王太子プリンス・オブ・ウェールズの称号を冠している最新鋭戦艦でもあった。
戦艦レパルスも、建造年月はウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じで、それまで航空機による爆撃を完全に撃破してきている歴戦の強者であった。
圧倒的な英国海軍力を前に、日本軍が勝てる可能性は、限りなくゼロに近かった。
この艦隊を前に、日本軍はサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させます。
各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。
日本軍の被害は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上が深刻な被害を受けた。
イギリスは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスが沈没。
この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。
戦艦レパルズが沈み、次いで戦艦ウエールズが被弾し、沈没が避けられない状況下、ウエールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電します。
二隻の戦艦の乗員は同伴の駆逐艦等に救助されます。
この救助作業の間、日本海軍の攻撃隊は、いっさいの攻撃行動をせず、上空で待機します。
30分という時間は、もし、その間に敵戦闘部隊が急襲してきたら、日本の航空隊は、帰還するためのガソリンすらなく、全機、墜落のリスクを負っていた。
それでも攻撃隊隊長は、戦闘休止を決断し、空で待機した。
そして、ウエールズの乗員が全員退艦後、ひとりデッキに残ったトマス艦長に、日本の航空隊は、全機整列し、一機ずつデッキ前を通過。トマス艦長に最敬礼をし、健闘を称えます。トマス・フィリップス艦長も、これに対して最敬礼で答えます。
そしてトマス艦長は、デッキにわが身を縛りつけ、艦とともに沈みます。
更に、マレー沖海戦の翌日には、日本海軍機が、再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表し、慰霊を行っています。
このようなすばらしい日本海軍の武士道精神は海上自衛隊に脈々と受け継がれています。
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